愛する故のエピローグ

それは当然とはいえそんなタイトルを付けたが
2月まで生きるかもと希望と共に見守り続けたカブトムシの赤仙人が、ついに逝った。
もう少し(とは言えないが)で7ヶ月。先述のブログ更新から二日目だった。

その時はまだ元気な様子だったが、少し予感もしていた。
翌日動きが遅くなり、殆ど動かなくなり
二日目には完全に動かなくなった。
義足を外し、長生きだったね〜と声をかけ、感謝を述べ、深く掘って土に還した。
だが今も、手に乗せる時に口で指をこする、削るような仕草が
どうも忘れられない。

しかし命は続いている。
幼虫達のフンが満載になったマットを2/3取り除き、新しいマットを入れた。
これでしばらくは何もする必要がなく楽だが、何もしない、というのはかえって寂しいものだ。
と言っても、幼虫を掘り出してかまってみようものなら

yoseyo
いや出来まい。。色んな意味で。

(ハナコロ)(前にも書いた、急に話がコロっと変わることね)
自分がずっと以前飼っていた、または同居していた
グリーンイグアナのグリフは、しばらく骨のまま一緒にいた。
ペット葬儀とやらをし、骨壷に入り、毎朝水をやっていたが、
いつかは埋めてやらなきゃいかんなと思って
年月が過ぎていた。

土に還す、という表現を先ほどしたが
イギリスのペット医師が、自分の可愛がっていたペットを土に還さず
同様の骨になった状態でずっと一緒にいる、というのを番組で見て
国や宗教の差はあるが、それでもいい例もあるのだと知り
自分も、彼が旅立ったと感じられるその後もしばらく毎日水をやっていたいと思ったのだ。

無論、自分のエゴである。

その後、埋葬の機会を逸してしまっていた。

今更だが驚く勿れ、イグアナは人や大型犬の骨壷のサイズなのだ。
想像以上に尾の部分の骨が多い、大きいということだろう。
ここへきてやっとバッグに入れて実家に持ち帰り、庭の良さそうなスペースにスコップを当て
かなり深く掘り(粘土質の土が出てきた)
地上にはブロック等で装飾を施し、そこに永眠してもらった。

ーーーこれで長い間、気にかけていたことの一つが達成できた、と感じる。

生き物との出会いは結構な確率で自分の想像や理想とは違った形で訪れるものだ。
誰かに急にもらうとか、ふいに目が合ってしまったからとか、いきなり登場するとか。

しかし不思議と思えなくもないのが「いつか飼いたい」と願っていたり
もう一度飼いたいと思っていると飼う、そんな現象に思い当たるふしがある。
カブトムシがそうだった。
とはいえ意思の疎通もある哺乳類とは
その確率も、飼いやすさや覚悟の面でもカブトムシは比較対象にはできないが。

何であれ死別となれば痛みを知り、そこで同種を飼うか、別の何かを飼うか、
はたまた何も飼わないか。

自分の遠い知人に、何世代も犬に同じ名前をつけている人がいるが・・
それもまた一つの愛情の表現なのだろう。

自分にはイグアナやそれに近い生き物はもう到底飼えない、とその時感じた。
新しい喜びでグリフを忘れることが妙に切なく思えたからかもしれない。
もうあの思いはしたくないと強く感じたからかもしれない。

長らく気にかけていた行事が済み、それにより
またもしかしたら新しい出会いが、いつか訪れるのかもしれない。

生き物、特に昆虫が命を謳歌する夏は暑いし、汗をかくし
そこいらじゅう蒸していて動けなくなるし本当に面倒だ。
・・こんなに寒い時期にそれを思うのもだいぶ変だが。
幼少の頃は真夏とギラつく太陽と昆虫のいる夏休みがあれほど好きだったのに
いつからだろう、夏があまり好きでなくなったのは。
多分昆虫と生活が離れた直後だろうか。

小学校の時にスイミングスクールでバッタバックブレストフリーの個人メドレーを
プールを楽しみながらやっていたのに行かなくなったせいもある。
自分は冬に生まれたからだとかそのうち勝手に解釈していたし
それもあると。

ついでに若干、自慢してみると

小学校4年生の時、学校内で水泳の一級は
自分一人だけという状態だった。
新設校で、自分の学年が一番上という事が関係してはいたが。
「黒帽に三本線」が自分しかいないことが唯一自慢だった。

こういうのねkurobou
今もこういうのあるのかは知らない。
ちなみに二級が二本線、三級は一本、4級は赤帽となる。
その一級だが、
飛び込み→15M潜水し、
バタフライ25M→背泳ぎ25M→平泳ぎ25M→自由形25M
(これがバッタバックブレストフリーの個人メドレーだ!!)
すべて足はつかずに泳ぎきる、という条件になる。
簡単すぎて小学生のくせにとても嫌なやつになるところだった。が、多少無口が幸いしたようだ。

あ、今それか・・・

これから自慢には自慢マークでも入れる事にする。
ji

何か・・ラスタカラーだな・・。

話をすり替えるが、暑いのはいやだよね。寒いのは何も嫌じゃない。

しかしこのところまた夏が好きになった。
カブトムシのおかげに他ならない。
今年の夏、あの赤仙人のような個性的なカブトムシが地上に出てくるか楽しみだ。

飼っている以上はできるだけストレスなく、過剰に接せず、そして
願わくは今年も赤仙人以上に長生きして欲しい。
もう触れられはしない天の住人達。
こうして想いを、とるべき行動を、愛情や思考や、生きる続きを
時を経てなお残し示してくれる者たち。

時に自分を睨みつけたり、腹が減ると飯をくれ、と迫った
自由奔放なイグアナに
また、会える日が来るだろうか。

そう。これはプロローグなのだ。

http://treaclewell.com/grillar/

カブトムシ赤仙人とは私のことだ。

昨年
カブトムシ達が成虫になったのは7月最初の週〜半ばだった。
6匹のカブトムシのうち、4匹がオスだったが、どの個体が何日で最初だったか
記憶にない。

が、しかし。
以前、記載した赤いカブトムシの小さい方のオスは、まだ生きている。

ちょっと、驚きである。

この個体は既に前後の足のフセツが4つ無い。
そこで、嫌いな人にも耐え得る写真にし、冬っぽくデコッてみた。(意味なさすぎ)20150117

今日の時点で1月19日。つまり一番最後に羽化していた個体だとしても
7月15日〜1月19日、半年以上生きている。
昔に比べ、エサや環境により寿命がのびているとしても
一般的には6月辺りに羽化し、9月か10月には死んでしまうと考えられる。
気温の関係で自然界の秋、冬には耐えられないのは当然で、室内の温度なら長生きも可能とは言えるが
それでも自分の考えでは、12月には皆死んでしまうだろうと思っていた。
それにそう決め込んで12月半ばにはエサも買っていなかった。年を越す事はないと勝手に思っていたのだ。
嬉しい誤算だ。で、願いを込めて多めに購入した。

皆ほぼ同時に産まれており、幼虫の時代はさほど変わらない大きさだった。
他のカブトムシはほとんど11月後半〜12月中に天に召された。
この個体の前には、一番大きい、羽の少し閉じない個体がギリギリまで元気だったが
急激に動かなくなり、逝ってしまった。それでも5ヶ月少し。既に長寿である。
そして生き絶える間際には相当動きが悪くなり、ほぼ1日触覚だけが動く日もあった。

が、なぜだろうか。
この 赤2号(だっけか?)だけは、皆が息絶え絶えで12月前後で死んでいったのとまるで違い、
1月に入ってなお、すごい力で指を押し上げ、暖かい日にはケージを引っ掻いている。
例の、死の直前に暴れるそれとは違う、まだ生命力のあるものだ。
しかし勿論真夏のブンブン飛んでいる時とは明らかに違う。力は確実に衰え、足の出も悪い。
それでも珍しいと言う他ない。

なので名前を付けよう。赤2号→赤仙人。

状態はというと、前足と後ろ足の両方のフセツは12月後半に失くしたものの
エサは毎日食べている。
たまに転んでいるが、自分で起き上がるか、そのままひっくり返って朝になった日があるはずなのに
(実際朝見てそういう場面があった)何故か元気に生きている。

何が違うのか、自分の環境で長寿になった理由を考えてみた。
そこで実体験として分かったことがある。

1/まず温度だが、夏の昆虫(昆虫の成虫は基本夏だが)であるが故に
暖かくしていなければすぐ死んでしまうイメージがあるが
実はそうでもないようだ。つまり室温であっても暖房を入れずにいる真冬ならかなり低温だが
その間は逆に動けないので無駄な体力を使っていないようなのだ。
仮にひっくり返ってももがけないのではなかろうか(しかしそれは低温で死ぬのと紙一重の賭けだな)。

2/水分。水を舐める事は知っていたが、エサ(ゼリー)を食べない時にも、
霧吹きで出来た水滴を舐めている。
手の平に置いたゼリーを舐めさせた後、気に入らない顔をしたので水滴を舐めさせたが
エサとの選択で、水を舐め続けた。喉が渇いていた(彼らにとって正確な表現ではないが)的な行動だった。
乾燥し体液も減るし、甲虫の体、器官には、乾燥を防ぐ為に直接的に水が必要なのではないだろうか。
無論、乾燥は命取りである。だから霧吹きするのだが、舐めさせる為ではなかった。

スイカは水分が多いから良くないとか、実しやかに語られているが
それだと水分を摂らせる方法が「適度な水分量のエサのゼリーからで十分だ」という解釈にも
なりがちな気がする。実際自分がそうだった。(スイカばかり、ではいけないだろうが)

3/たまに触ってやる。
メスを求めて交尾のような行動をとるし、ストレスになるので良くない
という意見がほとんどではないだろうか。
甲虫が人間に触れられて良いことなどあろうはずがない。と、思ってはいたのだが
自分の性格からしてそうはいかんぜよ。

エサを与える為に一旦どかせる為にカブトムシを手に持ったまま片手で作業をし
戻す時もあればそのまま手のひらに置いて眺めている事もある。

特にこの個体は、一番気に入った個体なのでその回数も多かったと思うし
実際今でもそうしている。
手に乗せれば当然ジージーと音を出している。あまり多くてもいけないが
少しばかりそういう温もりのようなものがあったほうが良いのかもしれない
(仮想メス)
と思える結果となった。しかしこれはあくまで個人的な感覚でしかない。

尚、この個体は過去にメスと交尾している。

4/これ以降はごく当たり前な要素でしかなく、エサね。
この個体は、これだけ、しか与えていない。
■これだけ↓
20150118

ご覧のように義足をつけているがそれは後述。※1)

高タンパク/トレハロース入ってやつだ。(KBファームのプロゼリー)
カブトムシやクワガタなど甲虫類を飼っている輩なら大体皆知っているこのメーカーのゼリーは
最もメジャーなゼリーの一つ、と言っていい。
前年(一昨年)まではあえて他のゼリーも、なんとなく偏りの無いように与えていた。
但しこのゼリーをメインにしてはいたが
他の様々な栄養価の高いゼリーを与えてきた子孫がこの結果になった、と言えるかもしれない。

5/転ばない環境を作るのではなく、デコボコを多くし、転んでも起き上がれると「認識」させる空間が
ベターである。ってこれも結果論であり、自分の個人的な感覚でしかない。
しかし、気づいたことがある。
彼らは、少々弱って来ると、じっとしている時は頭を上にしている事が多い。
少し坂になっている止まり木で、頭はほぼ上側だ。あと、穴(凹み)にはまって垂直の姿勢で
そのままでいる時も。
これは、はまった時に出ようとして結果そうなっただけではなく、何か、頭が上のほうが
彼らの身体構造上都合が良いのではないかと感じる。平たい場所でじっとしているよりも
何故か、わざと狭い隙間に尻からはまり、垂直に立っている時が多いからだ。
平たい場所に移動させても結局その体勢を選ぶ。

転ばない平地よりも転んで立てる場所が多い方が気持ち?が安定し、平気でひっくり返っていられ
更に、尻を下にして頭を上に出来る→長生きに繋がる、というのが適当かつ勝手な持論である。

まあ、ケージの内容や大きさは、やはり晩年になれば変化させるべき、と思う。
初めはマットに潜れたり止まり木がきちんとあったり、ごく平凡で多少広めのケージが良いが
だんだんと止まり木は角度を緩やかにし、足を引っ掛けやすいものを多めに置いておくようにし
ケージは小さめにすべきと思う。この辺は皆やっていると思う。
晩年にはスペースは狭く小さくし、デコボコはあったまま、止まり木はほぼ水平で
水分は欠かさない、というのが良いのではないだろうか。

そして現在は、マットは外し、一番下に熱帯魚用だった木炭入りのフィルタを敷き
その上に人工芝を適当に切ったものを敷き、平らに置いた細い止まり木(両腕で掴める)、餌台、
小さい木のブロック数個転がしてある、という具合になっている。

6/ん・・それとやはり、お気に入りだった事からして、その情が彼の余命に少し影響しているとかなんとか。

※1)実はこの赤千人。私が予て試そうと思っていた「義足」を先日着けた。
と言っても、ごくごく簡易的な仕組みで、赤千人には申し訳ないのだが。
釣り針等で本格的に作る人もいるし、それが一番いいのだろうけれど
今まで自分はこの義足をつける、という作業までする必要は無い、と思っていた。
しかしこの赤千人は特別な存在となった故、試験的ではあるが着けている。

輪ゴムとスピーカーケーブルを剥いたものを前足にくくりつけただけのものだが
なかなか器用に周りに引っ掛け、爪代わりにして動いているので、そのままにしている。

■夜中に徘徊する赤千人(1/19)

0100

今回もカブトムシ一色になってしまった。。が
年越しカブトムシどころか、もうすぐフェブラリーカブトムシとなる仙人並みのカブトムシなわけで
今回もこの様な内容になった(のじゃ。)(語り/赤千人)

1日でも長く元気でいて欲しいものだ。

誰が為に世界は

つい一ヶ月程前、混み合う駅での事。
ホームへの階段は混雑しており、駅員が拡声器を用いてちょいうるさいなーと思える大きさで
「追い抜きは危険です。ゆっくり下ってください」と言っていた。
最初はそれが気になったのだが、それはいいのだ。
自分の前に女性がいて、その前には男A、その前に高齢者の男性がそれこそゆっくり
階段を下っていた。足も悪いのかもわからない。
後ろの人間は詰まって遅くなっているが、電車は未だ到着していない。

その時。男Aはいきなり横の鉄製の壁を「ドカーンドカーン」と叩き、それを二度も繰り返した。

おい。

自分の眼の前にはAの頭が届く位置にあり
「ボカ」っと拳固したくなった。

そんな事で老人が速く下りるか。
ついでに。

ジャポニカ学習帳の表紙に昆虫の写真を全く使わなくなった、とか。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141127-00010002-withnews-soci

メーカーは苦渋の決断、とある。
一言では言えない様々な事情が伴ってそうしたのだろうけど
顔だったものをなくすのはあまりに寂しい。
無論、植物の表紙も扱っているのでそれも悪くないのだが。
だが教師がクレームするって何。生物の授業に昆虫の存在は要らないのか。

商品だし企業である事、それに世の流れは必要不可欠なものではある。

気持ち悪いかどうかは個人の勝手。誰でも苦手なものはあるし
見たくない触れたくないものを強制する必要は無い。

なら買うなヨ と。

使わざるを得ないならカバーでもしてやれば見えないし
少し考えればこんなことでクレームするかな。
自分だけ良ければいい大人の多さにどうにも嫌気がさす。
なんでこんなクレームにいちいち大切にしてきたものまで
無くさなければならない世の中かな。
商品なんて今はネットでも見れば消費者がピンポイントで好きなものを選択できる。
他人には価値ゼロでも好きな人には値がつけられない程価値のあるものもある。
なのにまるで自分の杓子定規に当てはまらなければ全てそれが悪
みたいな。

クレームつける人含め
好きな人もカメラマンも 何より昆虫たちもかわいそうでは。
色んなものが、どうなんだろと思ってしまう。

デパートの喫煙所で3歳位の男の子を煙たい中で平気で一緒に入れ
その子に入り口の自動ドアの開閉で好きに遊ばせ、出入りする人の邪魔をしていても
何も感じずにタバコを吸っている親。
あーもしもし。何か感じませんか。

いや、ちょっと待て。
確かにこれらのうち二つは道徳としての問題だが
自分も含め、皆が自分の都合で頭に血が上り、ストレスを感じている。
当然、ここに記載するもので全てではない。

そんな事、あんな事、震災や災害で被害を受けた人
その他、志半ばで生きられなかった人の家族の前で言っていられるのか。

見れば目の前のカブトムシも残りの命を自分に預け
必死に生きようとしている。で、幼虫はその横でうにょうにょ。(なんだかな)
単に我慢するでなく、そんな事を日常とできる事への感謝が先か、と

ふと思う。